なぜ神学生をアジアの宣教地に連れて行くのか ー関西聖書神学校校長 鎌野直人ー

2010年4月、私は牧会の現場を離れて、フルタイムで関西聖書神学校での教育と訓練の働きに携わるようになりました。その中で最初に取り組んだことの一つが神学校のカリキュラムの改訂でした。どのようにすれば現代の教会に仕えることができる働き人を育てることができるのか、議論を繰り返してきました。その中で、改訂の目玉の一つとして準備したのが短期海外宣教旅行でした。それも、東南アジアの国々を訪ねるものです。
2012年度から新しいカリキュラムを開始しました。そして、いくつかの宣教団体と話し合いを進めた中で、OMFの「サーブアジア(短期宣教)」プログラムを通して、2014年夏にミャンマーを学生たちと訪問することになりました。その後、2017年にはカンボジアを、そして2019年と2023年にはタイを訪問しました。
これらの出来事を振り返って、「なぜ神学生をアジアの宣教地に連れて行くのか」と問われたとき、いくつかのことを挙げることができます。

文化を知る
同じアジアとはいっても、東南アジア諸国での生活は日本のものとは大きく違います。まず言葉が違います。食生活も違います。水道水は飲めません。においが違います。トイレが違い、風呂・シャワーも違います。礼拝で歌われる賛美も違います。参加した神学生はまず文化の違いに圧倒されるのです。時に体調に大きなダメージを受けることもあります。ミャンマーに行った時に、現地の食事が一切、食べられなかった神学生がいました。辛い食べ物を受けつけられない者も一定数います。普段元気な人でも弱り果てるのです。
しかし、文化を知ることは喜びに結びつく場合もあります。アジアの国々の文化は基本的におもてなしの文化です。自分たちとは違う方法ではありますが、心からもてなしてくださっているのです。私はココナッツジュースそのものはそれほど好きではありませんが、暑い午後に、水ではなく、キンキンに冷えたココナッツジュースを出してくれたことは忘れられません。
他の文化を知ることは、同時に自分たちの物事のとらえ方がいかに「日本的」なものであるか、気がつかざるを得なくなります。日本とは違うやり方で行っているのに、そこでのものごとはスムーズに進むのです。日本の神学校の文化や教会の文化、日本の青年の文化がいかに相対的なものであるか、発見します。他者を知ることは自分に気がつくことでもあるのです。

タイ、チョイフォン茶園で

タイ、チョイフォン茶園で

宣教を知る
 「短期宣教旅行を通して、海外に宣教師として行く召命をうけた人はいますか」と質問されたら、「まだ誰もいません」としか答えられません。しかし、参加した神学生がみな、宣教師をサポートしたい、という思いを持つようになります。海外の国での宣教の困難さ、ときには迫害に直面する現実に気がつきます。宣教師の働きを通して福音が届く人は僅かではありますが、それがたいへん価値があることに気がつきます。宣教の方法に様々なかたちがあることにも気がつきます。そして、結果第一主義で海外宣教の働きを評価することの誤りに気がつくのです。さらに、海外の地における日本語を語る人への宣教にも目を向けるようになります。その一方で、日本に、今訪問している国の人がいることに気がつくこともあります。日本国内でも様々なかたちで「海外」宣教に加わることができるのです。
現地に遣わされている宣教師たちの遺産にも気がつきます。タイのある神学校を訪れたとき、その立地や集会の持ち方が自分が奉職している日本の神学校の昔のやり方とそっくりであることに気がつきました。アジアの文化で共通だということだけではなく、欧米の宣教師が持ち込んだ方法がそのまま残っていたのです。成功第一主義的な宣教師の働きがどれだけ宣教地に傷を残すか、も見ることができます。一方で、いのちをかけた宣教の働きの結ぶ実も見ることができます。

ミラクル寮にて

ミラクル寮にて

人を知る
 短期宣教旅行で経験するのは援助「される」ことです。病気になって助けてもらう、言葉が通じないので通訳してもらうのです。神学生は援助する側に立つことが多いものです。しかし、弱い者になって援助されることによって人は成長します。そして、今度は、自分と同じような旅行を、仲間たちや若い人々に経験してほしい、と思うようになるのです。弱くなって援助されることも含めて、です。神に信頼するからこそ、人に信頼するという秘密に気がつくのです。
これまで伺った国はみなキリスト者の人口が全人口の1%程度しかなく、日本と変わりません。だからといって日本の教会に漂うような閉塞感や悲壮感を見ることはありません。なにか希望があるのです。宣教地の人を知るとき、日本の教会を少し遠くから見直すきっかけにもなります。
人を形づくった歴史と人が形づくった文化遺産を知ることもできます。アジア諸国を経済的な視点でしか見てきていなかった者が、その地の人が生み出した素晴らしいものを知る時、感動します。逆に、どれほど悲惨で愚かな歴史を辿ったか、を知る時、日本のみならず諸外国に対しての自分たちの責任を痛感するのです。
文化を知り、宣教を知り、人を知る旅が短期宣教旅行です。そして、このことを通して参加する神学生は神を知り、自分もそれぞれの場所に神から遣わされる事を知るのです。10日間ばかりの短い体験であっても、それが生涯を変えるインパクトがあることを覚えるからこそ、神学校における短期宣教旅行をこれからも継続して行きたいと心から願うのです。

【お祈りください】
●さらに多くの神学生、若者たちが東南アジアの宣教の現場を訪れ、主から新たな気づき、視点を頂くことができますように。
●若い兄姉たちが短期宣教旅行を通して、今自分が主の宣教のわざにどのように関われるかを祈り、考え、一歩踏み出すことができますように。

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