もてなしと宣教  ガリーナ・ヒッチング師

神に豊かに用いられた歴代の著名な「宣教師」や「宣教の働き」のことを考える時、皆さんはまず何を思い浮かべるでしょうか。現地で直面する様々な恐れや、生活の不便さを忍ぶ姿、または彼らが成しとげた素晴らしい働きを思うでしょうか。しかし、彼らの人生を良く見てみると、そこにはもう一つの共通点―彼らがもてなす人々だったこと―が分かってきます。彼らは繰り返し周囲の人々に愛の手を差し伸べ、家に招き入れ、一緒に時を過ごし、食事を共にした人たちなのです。

彼らの人生において傑出しているものは、考えられないような状況の中でさえ人を愛し、もてなす能力です。苦難を忍び、偉業を成すことは、キリスト不在の肉の力でも成しえますが、このようなもてなしは、聖霊の力を通してのみ可能です。

キリストにとって、もてなしは異なる人種同士の和解の働きの中心でした。良きサマリヤ人のたとえ、罪人や取税人と食事をする主の御姿、ザカリヤの物語、井戸端の女性との会話…この中には人種的、宗教的、文化的なあつれきが含まれています。しかし、どの話も中心にあるのはもてなしです。

人種間の不和は、実にアベルの殺人によってこの世にもたらされた兄弟間の不和そのものです。罪が入り込んだ人間性はねたみ、殺人、憎しみにかられるようになりました。私たちは皆、神のかたちに創られたのではなかったのでしょうか?しかし、私たちは自らの文化、家族、安全を守ろうとして、そして罪により、他者を愛せなくなっているのです。

自分が何らかの点で相手より優れていると、ほんのわずかでも思いながら祈り、献金し、現地に行き、宣教に携わろうとするなら、私たちは危険な領域に足を踏み入れていることになります。私たちは兄弟愛をもって伝道や宣教に取り組まなければなりません。

困難な状況にある時、忠実な僕であろうとして、与えられた義務を果たす場合があるでしょう。しかし、もてなしは義務であってはならないのです。犠牲を伴うものになるとしても、真のもてなしの心は愛からあふれるものでなければなりません。もてなしが経済的、感情的、時には身体的にすら難しい場合があります。難しくとも、そのように他者を愛するかどうかは私たちの選択です。

時にはある特定の人々を家に迎えることに気が進まない場合もあるでしょう。しかし、神は私たちが簡単に愛せる人だけを愛するよう召されたのではなく、全ての人々、敵すらも愛するよう召しておられるのです。さらに、神はよく特定の人たちを愛するよう導かれます。私たちの周囲の人たちは理由があってそこにいるのです。この前、あなたが彼らをもてなしたのはいつだったでしょうか?

もてなしは教会成長につながるでしょうか?欧米では教会成長を考える時、教会員数が話題になります。しかし、教会成長の要は数ではなく、そこにいる人々です。誰もが受け入れられ、認められ、愛されていると感じたいと願っています。教会でそれが実現されるためには、人種、社会、世代、宗教的壁を脇に置き、周囲の人たちに神の愛を届け始める必要があります。欧米の教会は社会的時流に乗ったり、最先端の方法に注目し、もてなしという単純なことを見失いつつあります。

どこにあっても、愛のもてなしを通して世界に手を差し伸べ、人種間の和解、より大きな愛、教会の成長を目指しましょう。まずは、このお正月や旧正月に、周囲の海外からの方々に声をかけてみませんか?

Recent Posts

Start typing and press Enter to search