主の家をいっぱいにするために ドナ・ジェニングス師

「あなたの国のお医者様で、私の娘を治療できる人をご存知ありませんか…。」
母親は生まれつき知能と身体に重度の障がいを持つ七歳の娘を抱きかかえ、不安と恥ずかしさが入り混じった表情でこう尋ねました。当時私たちは東南アジアのある国に住んでおり、この家族は私たちが住んでいた所から通りを隔てた向かい側に住んでいました。そしてある日、何とか私たちに助けてもらえないかと、藁にもすがる思いで訪ねて来たのです。彼らは地元の医者に誤った診断をされた上に高額の治療費を負わされていました。しかも少女の障がいの原因について、周囲の人たちからは心無い噂まで立てられていたのです。

ある街角で(写真と本文とは関係ありません)

ある街角で(写真と本文とは関係ありません)

国連によれば、アジア・太平洋地域では六人に一人が何らかの障がい(知覚、運動機能、知的、精神)を抱えていると言われます。そしてアジア諸国は世界的に見ても障がい者人口の増加が最も著しいとされています。この統計結果の背後には障がい者の社会的・宗教的孤立、正しい診断・教育・健康ケアの欠如、つまり社会的・法的保護の欠如。また多くの場合深刻な貧困を伴う経済的問題、虐待が見られます。

東アジアに重荷を持つ国際クリスチャン団体として、主イエスの福音を世界のあらゆる人々に指し示したいと願う者たちとして、OMFはこの現実に向き合わなければなりません。私たちは福音がどのように障がい者の人生にインパクトを与え、そして彼らを見下す人々の姿勢にチャレンジをもたらせるかを自らに問う必要があるのです。

行く…
OMFは宣教大命令に従い、国籍や文化の壁を越えて世界中に出て行った多くの男女の歴史があります。しかし障がい者の人々に福音の豊かさを余すところなく伝えようとする時、私たちは今も私たち自身の態度の内に存在する壁を乗り越えなければなりません。

大いなる晩餐のたとえ(ルカ一四・一五~二四)において、主人からの晩餐への招待は拒絶されました。主イエスにとって拒絶はめずらしいことではありませんでした。主は常に進んで障がい者、貧しい人々、社会が罪人と烙印を押して拒絶した人々の側に身を置いていました。こうした主の姿はクリスチャンのコミュニティの中でどう反映されるべきでしょうか。

主人は召使いたちに対して二度も町の「貧しい、手足や、目や、脚が不自由な人々」のいる所に「急いで出て行く」ように命じました。そこは社会的地位の高い人々なら通常避ける場所で、そこにいる人々はそのような晩餐には招かれていなかった人々です。宣教の働きの中で、この緊急性と意図的に彼らの所へ行く、という行動はどう表されるべきなのでしょうか。

出て行って…
私たちの主人であるお方は、障がいを持つ人々の所に「急いで出て行く」ように、今OMFに迫っておられるのではないでしょうか。彼らの多くは教会の宣教戦略や姿勢が壁となって、福音を聞く機会があまりなかった未伝の人々です。OMFはアジアの地元教会を通してこの大切な人々の所へ行くべきではないでしょうか。「彼はどのくらいこのようになっているのか」(マルコ九・二一)や「私に何をしてほしいのか」(マルコ一〇・五一)と主が問われたように、私たちも愛と尊敬をもって彼らの経験を理解するために問うことが求められているのです。

連れて来る…
私たちが障がい者の人々やその家族に福音を伝えようとする時、どこかに上から目線の姿勢が出てしまうことが余りに多いように思います。私たちは、(しかも力も能力もある者として?)障がい者の身体面、医療面、物質面、感情面の必要を与えようとします。しかしそのような働きでは、依然として立ちはだかる障壁の存在は変わらないままです。

主は共に晩餐に加わってもらうために障がい者のコミュニティから人々を「連れて来なさい」と私たちに命じました。障がいと共に生きる人々にとって、福音は主イエスと主の民との真の交わりへの招待状です。キリストにあって真の人間性を回復させる福音を通して、障がい者を上から見下すような態度は変えられ、主のみからだを通して全ての人々が歓迎され、大切にされ、力を与えられるのです。

また私たちが彼らに仕えるだけではなく、彼らと一緒にいることによって、私たちも彼らを通して神の祝福を頂けるようにと私は願っています。このようにして、かつては「弱く見え」、除外された人々が、今ではからだの中で「なくてはならない」存在とされるのです(Ⅰコリント一二・二二~二三)

何のために…
私たちはかつて見過ごしにしていた場所と人々のもとへ「出て行き」、皆等しく大いなる晩餐に一緒に集うために彼らとその家族を「連れて来る」のです。なぜでしょうか。主人の家をいっぱいにするため、障がいを持つ人々が身体、精神、魂、霊において回復し、主を知り、主に栄光を帰すためです。

障がいを持つ人々にどうしたら福音の豊かさを余すことなく伝えられるのでしょうか。全ての人のための神の御心を具体的に表すことを念頭において、クリスチャンのコミュニティを形造ることによってです。
教会が社会の既成概念にとらわれず、真の人間性とコミュニティを世に示す時、そして慈しみ深い神が用意された晩餐に様々な人々が集い、そのためにテーブルがいっぱいになっている…。教会がそのような場になる時、教会は神が旧約の時代から告げておられるチャレンジを社会に伝えることができるのです。

 

Recent Posts
Contact Us

We're not around right now. But you can send us an email and we'll get back to you, asap.

Start typing and press Enter to search